今日も安定のボイチェンで喋くりました!
ネット巡回のお供にぜひ!!!
まぁ~今日はヴィンランド・サガを見続けて、クヌートが覚醒するんじゃね的なサムシングのシーンで(ネタバレを極限に回避)語られた愛と死の話がとっても印象に残ったのである。
愛と死の関係
神父のヴィリバルドは、クヌートに愛とは死であると語った。
愛とは、自分の持てるものを分け隔てなくすべて差し出せること。すなわち死して肉体を大自然に返すことこそ究極の愛なのである。人は生きているうちは誰も愛してなどいない。私たちが愛と感じているものは、すべて差別でしかない。
私がこの話を聞いてどう思ったかというと「ふーーーん、なるほどね」って思った。
超が付くほど「ふーーーん、なるほどね」って思った。
この話を観た後に、自分なりの考察をノートにまとめた。
それが以下。
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人が生きるっていうのは、知性を用いて生活を充実させながら、死の質を向上させることだと思っている。だが、こういう初心を忘れがちになってしまう愚かな生き物も私なのである。
ところで、ヴィンランド・サガで愛と死について語っていたんだけど、ふーんなるほどねって感じだった。持てるものをすべて差し出せること、つまり死こそ愛だというもののだ。
言われてみりゃそうだけど、ちょっと達観し過ぎていて実用的ではないかもなーなんて思った。じゃあ何が愛なんだと問われると、私には答えかねるんだけどさ。実際、自分が持っているものをすべて差し出すなんて不可能だ。
私はその差別を愛だと思って生きていくと思う。当面の間はそうやって、人を愛して生きていくと思う。
とりあえす私が生きるということは、冒頭2行だ。そこんとこよろしく。
ところで死の質ってどうやって決まるんだろうね。死ぬときわかるか! ガハハ。
↑ ↑ ↑ ↑
ということです。
ヴィンランド・サガの彼らが生きていた時代は死ねば文字通り大自然に帰っていったから、それを愛と言えたのかも知れないけど、今って火葬されて何も残らないしね。
どうなんだろうね、死は愛なのかな?
これは現代にも適用される考え方なのかな……いや、愛の形とか、死の意味とかは多分時代を超えて共通のものだと言いたいんだけど、そこが揺らぐと色々と衝撃ではあるんだけど、実際死が愛なのかは私には納得しかねるのである。
まぁ~、私はこれからもヴィリバルドの言う差別を愛として生きていこうと思う。
この感情の呼び方について、愛以外に知らないからだ。
よし! ……あ!!!
質問箱について答えようと思ったらうっかり愛について語ってしまった!
また明日あたりに答えると思います。申し訳ない~!!!
読んでくださりありがとうございました。